【年末年始渋滞情報】テレビ朝日・東名高速厚木LIVEカメラ


■【年末年始渋滞情報】テレビ朝日・東名高速厚木LIVEカメラ
まもなく年末年始の休暇!お出かけの際に、ぜひテレビ朝日のLIVEカメラで道路状況をご確認ください。
↑東京方面        名古屋方面↓
※夜間は映像が暗く見えにくい場合があります。
各交通機関は29日から混雑するということです。
各新幹線の下りの混雑は29日がピークで、指定席は始発からほぼ満席となっています。
上りは来月3日がピークで、午後の東海道新幹線の指定席もすでにほぼ満席だということです。
各高速道路は上り下りともに来月2日が最も混雑します。
東名高速・大和トンネル付近の上りでは、35キロの激しい渋滞が予想されています。
年末年始に空の便を利用する乗客の混雑のピークは分散しています。
ただ、予約率は去年に比べて増えているということです。





【年末年始渋滞情報】テレビ朝日・中央道八王子LIVEカメラ


■【年末年始渋滞情報】テレビ朝日・中央道八王子LIVEカメラ
↑名古屋方面       東京方面↓
※夜間は映像が暗く見えにくい場合があります。
各交通機関は29日から混雑するということです。
各新幹線の下りの混雑は29日がピークで、指定席は始発からほぼ満席となっています。
上りは来月3日がピークで、午後の東海道新幹線の指定席もすでにほぼ満席だということです。
各高速道路は上り下りともに来月2日が最も混雑します。
東名高速・大和トンネル付近の上りでは、35キロの激しい渋滞が予想されています。
年末年始に空の便を利用する乗客の混雑のピークは分散しています。
ただ、予約率は去年に比べて増えているということです。





【年末年始渋滞情報】テレビ朝日・関越道東松山LIVEカメラ


■【年末年始渋滞情報】テレビ朝日・関越道東松山LIVEカメラ
まもなく年末年始の休暇!お出かけの際に、ぜひテレビ朝日のLIVEカメラで道路状況をご確認ください。
↑新潟方面        東京方面↓
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各交通機関は29日から混雑するということです。
各新幹線の下りの混雑は29日がピークで、指定席は始発からほぼ満席となっています。
上りは来月3日がピークで、午後の東海道新幹線の指定席もすでにほぼ満席だということです。
各高速道路は上り下りともに来月2日が最も混雑します。
東名高速・大和トンネル付近の上りでは、35キロの激しい渋滞が予想されています。
年末年始に空の便を利用する乗客の混雑のピークは分散しています。
ただ、予約率は去年に比べて増えているということです。


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  今になって「地下水を使うわけじゃないんだから」と言うなら、
  最初から言っとけって。
  新市場の予算提出時に言っとけって。
  新市場建設協議会の席上で言っとけって。
  言わなかったり、言っても議会や協議会の理解が得られなかったのに、
  今「地下水を使うわけじゃない」は反則。詐欺。

  これでは「隠ぺい」とか「詐欺」」とか言われても仕方がない
  >ベンゼン160倍が記録されたのは9月22日に採取の地下水です。
  これまでの事例からおよそ3週間で公表できるので10月半ばには公表できた筈。
  公表されれば当然都議会決算特別委員会や新市場協議会に影響しています。
  やっぱり「隠ぺい」小池さん

  豊洲新市場への移転日を決めてしまうまで待っていたんでしょうね…。
  そして移転日決定の直後だとベンゼン160倍を報道しないのは不自然なので、
  数日待って発表。年末のドサクサに。
  12/20移転日決定→12/25ベンゼン160倍発表。


  
■TBS
豊洲市場の地下水調査、基準の160倍のベンゼン検出
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3248796.html

 東京都は豊洲市場の地下水調査で、環境基準の160倍の有害物質・ベンゼンが検出されたと発表しました。

 豊洲市場の地下水汚染をめぐっては、今年8月の調査で環境基準の最大120倍のベンゼンが検出されていましたが、9月の調査では最大160倍のベンゼンが検出されたということです。

 調査を始めた2014年以降で最大の数値となりましたが、市場の安全性を審議する専門家会議は、卸売など市場として作業を行う地上部分について、「科学的な安全は確保されている」としています。
 東京都は「地下水を排水するシステムの稼働を続けることで、水質は中長期的に改善していく」としていて、今後も推移を見守る方針です。



■毎日新聞 2017年12月27日 11時25分(最終更新 12月27日 11時38分)(資料)
豊洲市場 小池知事と江東区長、来秋開場で五輪へ連携確認
https://mainichi.jp/articles/20171227/k00/00e/040/241000c

 東京都の小池百合子知事は27日、豊洲市場(江東区)の来年10月11日開場が決定したことを受け、江東区の山崎孝明区長と区役所内で会談した。区内には2020年東京五輪・パラリンピックの多くの競技会場が建設されることを踏まえ、小池知事は「江東区からいただいている課題を改めて確認し、都としても真摯(しんし)に対応するとお伝えした。(20年大会も)連携を取っていこうという思いを共有した」と述べた。

 山崎区長は「小池さん流の対応かなと思う。年末に(区役所に)来て、政治家として一つのけじめを付けられたと思っている」と評した。

 江東区は市場の受け入れに当たり、(1)土壌汚染対策(2)地下鉄有楽町線の延伸を含む交通対策(3)集客施設の整備−−を都に要望している。山崎区長は「(3項目の中で)すぐにできるものとできないものがあることは重々承知しているが、集客施設については『しっかりやっていきたい』との話はいただいた」と明かした。【芳賀竜也、稲垣衆史】




■gendai.ismedia.2017年12月27日  中沢 新一
「築地市場閉鎖」そのとき日本人が永遠に失ってしまうもの
世界で唯一の「魚河岸の思想」が危機に

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53912

築地市場の最終営業日が、2018年10月6日(土)と決まった。恒例のマグロの初セリを築地で見ることができるのも、この年明けが最後かもしれない。築地が背負うもの。それは単なる魚市場としての機能だけではなく、日本人の心の深いところに蓄積された、世界に類を見ない思想と伝統である――。

このほど人類学者の中沢新一氏が、ライフワークである「アースダイバー」シリーズ最新刊『アースダイバー 東京の聖地』を上梓した。表面的なニュースでは知ることのできない、築地市場の知られざる深層を本書から公開する。

魚河岸の自然哲学
魚河岸は、海の自然と人間文化の入り混じった境界であるから、海の自然が奥深くまで入り込んでいる。板舟に並べられた魚には、しじゅう海水が注がれて、鮮度が保たれている。活け船や水槽を使って、慎重に魚河岸に運び込まれた魚たちなどは、自分たちが市場にいることにも気づかないで、ゆったりと水の中を泳ぎ回っている。

自然と文化の混成したその境界の空間を、仲卸(仲買)たちが、所狭しと動き回っている。その仲卸自身が、境界的な生き物である。

仲卸は、問屋によって産地の海から運び込まれた魚貝を、セリにかけ、人間世界の商品に変える役目をになっている。彼らは、相手の顔を知り抜いている寿司屋や料理店や小売の魚屋のために、できるだけ質の良い海の食材を用意したいと願っている。その日に入荷された魚貝を、彼らは半魚人さながらの鋭い目利きをもって正確に評価し、陸に棲む人々に手渡そうとしている。

こうして、海であり同時に陸でもある、この魚河岸という両義的な境界には、代々の仲卸によって、海の食材に関する莫大な知識が蓄積されることになった。境界の領域に、もっとも貴重な知財が蓄積されるというのが、「自然と文化を分離しない」日本文化の大きな特徴をなしている。

日本の農村文化では「里山」が、そのような知財の集積される境界をつくってきた。その里山を凌駕するような豊かな境界を、日本の海民文化は、魚河岸として実現してきた。その意味で、魚河岸の文化は、日本型原理の生み出した最高の作品の一つである、と私は思うのである。

日本橋から築地への移転騒動
しかしそういう日本型文化の典型のような魚河岸であればこそ、文明開化の時代に、大きな困難に直面した。文明開化のモデルとなった西洋の近代は、「自然と文化の大分離」という原理を実現しようとしていた。この原理では、自然と人間世界の境界につくられてきた、豊穣な中間領域などは認められない。

人間の世界の内部に、自然界が深く入り込んでくると、腐敗や死や病気がもたらされるからである。そういう事態を阻止するために、近代世界は自然界から切り離された、「衛生的」な都市を設計しようとした。明治新政府のブレーンたちは、そういう衛生的な近代都市に、東京は生まれ変わらなければならないと信じていた。

憲法発布の前年である明治21(1888)年の夏、東京府は新しい街造りに着手すべく、東京市区改正条例を制定して、本格的な東京改造に乗り出した。

江戸の都市構造は、火事と風水害にきわめて弱いという弱点をもっていた。この点を改造するために、東京を区画整理して、商業区、工業区、住居区などに分け、衛生的な近代都市への計画的な発展を図ろうとした。

その計画では、市場の設置場所は、箱崎、芝、深川の三ヵ所に限定され、そこに新しい市場が開場される予定であった。このうち最大の広さをもつのは箱崎市場で、約5万坪の広さをもち、他の2つは2000〜3000坪である。

この計画にしたがえば、日本橋にあった魚河岸(当時は魚鳥市場)は、10年以内に指定された場所に移転しなければならないこととなった。しかも、移転にかかる費用の全額は、業者自らが負担すべし、という性急で乱暴な命令であった。

このとき魚河岸といっしょに、移転を命じられたのは、青物市場、獣肉市場、屠場、火葬場など。自然の生死のサイクルに関わる業界が、衛生的な都市実現のために、所定の区画への移転を命じられたのである。おまけに、移転を監督する役目をまかされたのは、庶民に高圧的な態度で臨むことで恐れられた警視庁であり、これ以後、日本橋魚河岸と警視庁との間で、暗闘が続くことになる。

移転派vs.非移転派
この移転命令を受けるや、はじめ魚河岸は断固たる反対を表明した。たった10年で移転を完了しろだと、移転にかかるもろもろの費用も全部こちとら持ちだと。魚河岸は旧知の議員を使って、東京府に反対圧力をかけ続けた。

それにはさすがの東京府もまいって、移転時期を10年延期して、20年後とすることを認めた。ところが10年目の明治32(1899)年になっても、いっこうに魚河岸に移転の気配すらなく、さらに5年、さらに5年と、移転時期は延期されていった。しかしその間にも、膨張する東京は、近代都市としての発展を続けていた。日本橋魚河岸の置かれた状況は、けっして明るいものではなかった。

問屋の多くは、現地での営業を望んでいた。衛生面の設備を改良するとともに、河岸に大きな桟橋を架設して、利用面積を広くすることで、改良を図ろうとした。他にも中洲に市場を移す案、芝浦の埋立地案などが飛び出し、侃々諤々の状態となった。

魚河岸の内部は、移転派と非移転派とに、分かれていった。非移転派は財閥派とも呼ばれ、市場内に住宅や売り場をもっている人が多く、移転派はそういう財産をもっていない人が多かった。そのため、有産者=非移転派、無産者=移転派という階級構図ができあがり、おりしも大正デモクラシーの時代を迎えて、双方の論客がたがいに激しい議論を戦わせて、一歩も引かない状況になっていった。

関東大震災
大正時代に入っても、日本橋魚河岸移転問題には、あいかわらず出口なしの状況が続いていた。

財閥派とも呼ばれた非移転派は、日本橋界隈にもつ店舗や自宅などの、自己資産を守ろうとして、移転を拒んでいた。これに対して仲買人(仲卸)を中心とする移転派は、旧態依然たる魚河岸の体質の民主化を求めて、新しい市場での再出発をめざしていた。

警視庁はといえば、とうぜん移転を後押ししなければならない立場にあったはずなのに、移転派の仲買人たちを、無産者の活動家と見なしていたため、なにかにつけて彼らの運動を抑え込もうとした。こうして魚河岸を包む状況は、完全な膠着に陥ってしまっていた。

その状況を、恐るべき自然の力が破ったのである。大正12(1923)年9月1日の正午前、関東地方を突然、マグニチュード7.9と推定される直下型地震が襲った。複合的な要因が重なり、地震の揺れの激しさと長さは、かつてない規模のものとなり、東京府下に甚大な被害をもたらした。

日本橋魚河岸はその日「河岸びけ」だったので、客はいなかった。ドーン、ドーンという一回目の激しい揺れで、魚河岸にあった家と土蔵の多くは、バタバタと横倒しになった。人々は家の中に隠れて、揺れの収まるのを待っていたが、いつまでも揺り戻しが続くので、平田船や発動機船に乗り込んで、水上に逃れることにした。

魚河岸の人々は、荷車を捨てて、家財を平田船や発動機船に放り込み、自分たちは船に隠れたり、水に飛び込んだりして、難を逃れようとした。夕方になって、市場に火が回った。火は川面に向かって吹き下ろし、家財を満載した船にまで火が燃え移った。川は一面火の帯となり、水中に逃れた人々にも、火は容赦なく襲いかかった。魚河岸だけでも、この日、400人を超える人命が失われた。

落日
日本橋魚河岸は、かくして焦土と化した。江戸時代にも魚河岸を燃やし尽くすような火事には、何度も遭ってきた。大地震も何度も体験してきた。そのたびに人々は、懸命の努力で、魚河岸をあっというまに建て直してきた。地震や火事には負けないという強い自負が、江戸っ子の末裔であるこの人たちにはあった。

地震がおさまると、魚河岸の人々は、さっそく再建にとりかかろうとした。一時的にどこか別の場所の仮営業でしのいで、その間に日本橋に前のような魚河岸を建て直す計画を、誰もが頭に描いていた。仮市場の場所はすぐに芝浦二号地という所に見つかって、まもなく警視庁の許可も下りた。

移転派の仲買人の多くは、さっそく芝浦の仮市場に移って営業を再開した。とにかく食料も物資も不足していたので、泥まみれの仮営業所であっても、海産物の入荷があれば、あっという間に売り切れてしまった。むしろ取引量は、大震災の前よりも増えているようにさえ思われた。

仲買人たちは日々の暮らしのことで手一杯だったが、そういう彼らの耳にも、この芝浦市場は仮の宿りで、いずれ本格的な市場が築地に開かれるらしいという情報が、ぽつりぽつりと聞こえ始めていた。

かねがね移転に反対だった、いわゆる財閥派の問屋たちは、できるだけ早い時期に、日本橋に戻って魚河岸を再建し、もとどおりに商売を再開したいと考えていた。ところが自宅の焼け跡に杭を打って囲いをして、とりあえずそこにバラックだけでも立てておこうと、避難先から魚河岸に立ち戻った人たちは、警視庁によって、魚河岸一帯に縄が張り巡らされ、立ち入り禁止にされているのを見て驚いた。

「なあ、いいじゃねえか、手前の家へ行くだけだから、縄をどけてくれよ」と頼んでも、巡査たちは立ち入り禁止の一点張りで、かたくなに中に入れようとしない。

警視庁は、かねて移転命令が出ているのにいっこうに移転しようとしなかった日本橋魚河岸を、大震災を好機として、一挙に移転させる方針を実行に移したのである。魚河岸一帯は立ち入り禁止区域となり、おりからの戒厳令下の東京で、この命令は容赦なく実行された。

新たな息吹
昭和のはじめ頃、築地の市設市場を訪れた人は、とても興味深い光景を見ることができたはずである。

その頃の築地は、海軍関係の施設が撤去されたあとの更地に、芝浦の仮市場から移ってきた魚河岸の面々と、都内数ヵ所の青物市場から移転してきた青物商とが、昔どおりの店舗街を連ねて、商いをはじめていた。売り場と通路をはさんで、その両側に店舗を並べた形式の商店街で、通路には天井がなく、野天のままだから、雨でも降ると、通路はぐちゃぐちゃにぬかるんだ。

もともとあった浴恩園という庭園の池は、まだ埋め立てがすんでいなかった。土地の価格交渉は、長いこと足踏みを続けていたが、ようやく決着をみて、新市場の建設が、今まさにはじまったばかりである。そこには今まで見たことのないような、モダンな築地本場の建物が、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。

昭和モダンの結晶体のような建物である。この建物の設計のために、東京市は震災の翌年にははやくも、欧米に設計技師や建築技師からなる一行を派遣して、近代的な市場の状況を視察させている。ミラノ、ミュンヘン、フランクフルト・アム・マイン、ライプチッヒ、ニューヨークのブロンクス市場などを視察してまわり、市場の構造や取引の仕組みなどを、ていねいに観察してまわった。

帰国してからは、魚類部を担当する技師も、青果部を担当する技師も、それぞれの部の問屋や仲買人を集めて、彼らからの要望をていねいに聞き取り、日本人が最適と考える空間の配置や動線を、このモダンな建築の中に、上手に収納できるやり方を暗中模索した。欧米の市場は合理的によく設計されていたが、そのままでは日本人の仕事場には適さない。技師たちは、たんなる西洋のモノマネでない建物を作り出そうとしていた。

問屋と仲買(仲卸)の連携として発達してきた日本の市場には、どんな構造がふさわしいか。近代の中に伝統をどう融合させていくか。このような模索の中から、日本の近代建築を代表する建物のひとつが、築地本場として出現しようとしていた。伝統と近代の融合は、昭和のこの時代の日本人が取り組んでいた、一大課題であった。築地本場の建築は、その国民的課題に、果敢な解答をあたえようとしていた。

問屋と仲買の分離
新しい市場の建物は、扇形の構造をしていた。海岸沿いに建物全体が大きくカーブして、内側に向かって扇が閉じていくような形である。建築技師と魚河岸側の話し合いの場で、魚河岸の面々は働くには四角い建物がよいと主張した。しかし建築技師たちは、物流運搬に鉄道を利用する計画でいたので、レールを海岸線に沿って走らせるためには、扇形が最適な構造であると、魚河岸側を説得した。

完成直後の築地市場(『東京市中央卸売市場・築地本場建築図集』1934年より)
この扇形の構造によって、問屋(卸売)の仕事と仲買人(仲卸)の仕事が、空間的に分離されることになった。日本橋魚河岸では、問屋と仲買人を兼ねる人たちが多かったので、それぞれの仕事場は混在していた。ところが、扇形の構造をした築地市場の内部では、それぞれの仕事場が自然と分離されるようになり、問屋と仲買人とが空間的に、くっきりと分離するようになったのである。

各地の漁港から鉄道で運ばれてきた魚貝の荷は、扇形をした建物の外側に横付けされて、荷下しがおこなわれる。扇のいちばん外側は、問屋業者(卸売)の作業場である。ここで第一次の荷分けがおこなわれ、種類別に分けられた魚貝は木箱(現在では発泡スチロール箱)におさめられて、待機している仲買人のもとに運ばれる。セリや相対で価格が決められたあと、荷は商品として仲買人に渡される。

扇形の内側の層に、仲買人の仕事場兼店舗が配置される。さまざまな運搬器具(現在ではターレットがよく使われる)で、仲買人によってここに運び込まれた魚貝は、さらに細かい基準にしたがって分類され梱包されて店の前に並べられ、なじみの料理人やお得意さんの買出人を待つ。

こうして、建築物のモダンな構造にうながされて、それまで混在していた問屋と仲買が空間的に分離し、ついで心理的にも分離して、ついには会社組織として分離していくようになる。このことをきっかけとして、日本橋魚河岸の文化とは根本的な違いをもった、築地魚河岸の文化が生まれてくるのである。

自立する仲卸
昭和10(1935)年2月、築地本場が開業した。この日を境として、「魚河岸」というものはなくなって、中央卸売市場の築地本場「魚類部」として生まれ変わった。

ついこの間まで、築地仮市場の昔ながらの店舗街で、魚河岸時代と変わることのない商いをしていた人々である。この人たちが、美しい扇形をした超モダンな建物に引っ越すことによって、なにが変わって、なにが変わらなかったか。これは、現在の築地市場の本質を理解するために、とても大きな問題をはらんでいる。

魚河岸の時代から見て、もっとも大きく変わった点は、問屋と仲買が分離したことであろう。築地本場の開業にともなって、魚河岸には「東京魚問屋会社」と「東京魚市場会社」という、2つの株式会社が立ち上げられた。魚問屋会社のほうは問屋を主力とする200人ほど、いっぽうの魚市場会社は1000人を超える仲買人を、その株主メンバーとしていた。それぞれが会社を立ち上げることで、問屋と仲買は、職能の分担をはっきりさせることになった。

この分離によって、仲買人の地位が、根本的に変わった。それまで仲買人は、産地漁港から運ばれてきた魚貝類の荷主である問屋(卸売)から、荷の一部を分けてもらい、それを買出人に販売したのち、問屋と値段交渉して代金を払い、差益を得るという商売をしていた。

このやり方だと、仲買は問屋の支配下に置かれる。仲買人の中にはそれが嫌で、みずから問屋を兼業することによって、自分で荷を集め、自由に販売する権利を持とうとした人たちもいた。問屋仲買兼業のこの人たちは、気持ちは仲買人であったので、人数から言っても、築地市場では仲買人のほうが圧倒的多数をしめていた。

それに築地市場の新しい精神を生み出していたのは、まっさきにそこへ乗り込んで商売を始めた仲買人たちであったので、従来のような問屋と仲買の上下関係や老舗の特権などは、少なくとも表面上はなくなっていた。問屋も仲買人も買出人も、市場の中では平等が建前である。こうして問屋と仲買はおたがいの領分をはっきりと定め、職能を分化させていった。

その職能分化を、くっきりと可視化していたのが、扇形をした市場の建築構造である。集荷→仲買→買い出しという流通の三段階を、扇形をした多層構造がそのまま体現してくれていたからである。これによって、魚河岸時代の錯綜をきわめた作業動線は、外側から内側へ向かう一方向の流れに整えられていった。そのおかげで、アジア的市場に特有のカオスは、ここ築地市場においては、じつにみごとに「制御されたカオス」としての、複雑系的な美さえ、身につけるようになっていった。

会場直前の築地市場。そのモダンさがよくわかる(『東京市中央卸売市場・築地本場建築図集』1934年より)
仲買人の築地市場
とはいえ築地本場の内部では、1000人を超える仲買人たちが、めまぐるしく立ち回りながら働いていたのである。この様子を見ていた農林省あたりの役人が、これを非効率かつ非合理なシステムであると考えても、おかしくはなかった。じっさい役人たちの中には、仲買人のような中間機構を削ることが物価安定をもたらし、セリによる価格決定などはまったく時間の無駄にすぎないと考える者たちも、多くいた。

しかし市場の現実に触れていた役人の中には、東京のような大消費地を背後に控えた築地市場に、もし多数の仲買人がいなかったりしたら、とうてい短時間で大量の荷分けなどできるわけがないことが、よくわかっていた。仲買人削減派とそれに反対する者との議論が続いた。最終的に事を決したのは、お金の問題だった。

大量の仲買人を解雇するとして、そのために要する莫大な補償金はどこから持ってくるのだ。この反論を受けた削減派はとたんに、そんな面倒なことはやめよう、に変わった。人数削減はしない。セリによる価格決定の権利も、彼らに委ねる。そのかわり彼らが勝手をしないために、市場ごとに厳しい業務規程を設け、責任は市場に丸投げする。こういう形で決着が図られた。

補償金の額に役人たちが尻込みしてくれたおかげで、築地本場における仲買人(仲卸)の地位が保証されたのである。とくに魚河岸=魚類部では、仲買人中心の考えで、事が運ばれた。このとき、現代にも通じる築地市場の活動形態の基礎がつくられた。古い「魚河岸型生命体」が、これを境として、新しい「築地型生命体」に姿を変えて、進化の次なるステップにとりかかったのである。

じっさい築地市場は、新しいタイプの生命体のようであった。
軽快に改良された荷車が、場内を縦横に走り回る。集荷から荷分け・販売まで、すべてのプロセスが、なめらかな運動に乗って、整序された流れをつくりだしていた。仲買人たちは、伝承の知恵に近代生物学の知識を加味した、海洋生物に関する新しい知識を身につけて、買い出しに来た料理人たちに、最良の食材を提供しようとした。

築地市場の信頼度とブランド力は、戦前のこの時代に、種がまかれている。この時代が、築地市場の「ベル・エポック」をなす。

中沢新一(なかざわ・しんいち) 思想家、人類学者。明治大学野生の科学研究所所長。1950年山梨県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。著書に『カイエ・ソバージュ機銑后戞愀楠の星の時間』(講談社選書メチエ)、『チベットのモーツァルト』『森のバロック』(講談社学術文庫)、『アースダイバー』『大阪アースダイバー』『野生の科学』(講談社)、『芸術人類学』(みすず書房)、『日本の大転換』(集英社)他多数。近著に『虎山に入る』『熊を夢見る』(KADOKAWA)がある。



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